おれは地下の罰房に入れられた。
床に大の字に貼り付けられ、何時間もそのまま捨て置かれた。なにされるでもない。ただ、放っておかれた。
おれは天井を見上げて、ぼんやり歌を歌っていた。茫然自失していたが、自分がなにをやらかしたのかはわかっていた。
主人をうしなったのだ。
最後のチャンスを棒に振った。
(まただ)
もはや悔しいとも思わなかった。誇ってもいない。ただ、自分にあきれ果てていた。
以前、隣の犬が三階の回廊から飛び降りようとした。
アンドリューという大柄なイギリス人だった。おれは彼がかわいかった。
アンドリューは首輪をひそかにはずし、回廊の手すりから飛び降りようとした。
おれはちょうどセルに戻されるところだった。あわてて身を乗り出し、その腰をつかんだ。だが、もろともに落ちてしまった。
アンドリューは無事だったが、おれの右足大腿骨は粉々になった。ヴィラの高度な医療によってかなり回復したものの、以来、右足をスムーズに動かせなくなった。
アンドリューは病室でおれのザマを見て、泣いた。
――あの人が来てくれると思ったんだ。怪我をしたら、少しは心配してくれると思ったんだ。
アンドリューの大きな肩はふるえていた。ふとい指の間から、哀れな涙があふれて流れた。
――捨てられるぐらいなら死にたい。
あの犬も同じだ。
あの王様みたいなマキシムも、夜ひとりで泣いていたのだ。主人の関心を買いたくて、逆らった。
クリスマス、ドムスに帰って来てほしかったのだ。
首輪をとりあげられたのは、つらかったろう。
おれは翌日、罰房から出された。
結局、なんの拷問もなかった。
「罰? 必要ないだろう」
アクトーレスのジョニーは冷淡に言った。「おまえはもう誰の犬でもないんだから」
主人は即日おれを売っていた。
(――従順な犬が好みだったな)
ほんのわずかに奇跡を期待していたが、甘かった。
おれは地下に戻された。
「舞い戻ってきたよ」
かつてのクズ犬仲間の前に現れると、彼らは手を打って笑った。おれの幸運は妬まれていたらしい。
「またチャンスはあるよ。びっこの犬が好きってやつがいるかもしれねえ」
「もうない。最後のチャンスだったんだ」
「そうかい。じゃ、そこで泣いてな」
おれはまたケージのなかで客を待った。
むなしかったが、うしなったもののことは考えないようにした。
客が来て、抱いていく。抱かれ、ケージに戻される。
おれはことさらにジョークを言って、仲間とバカ笑いした。くだらないことで酒場の酔っ払いみたいに盛り上がった。ショップの店員に叱られてもやめなかった。
おれは翌日、ドムス・アウレア番に変えられてしまった。
ドムス・アウレア番といっても、ここでは寝る仕事があるわけではない。正面玄関の脇に座り、客があるたびにバスケットをくわえていって、クジをとらせるだけだ。なかで何かプレゼントが出るらしい。
やること自体はたいしたことではないが、いかんせん寒い。アフリカでも十二月はそれなりに冷える。しかも、その日は小雨が降っていた。
おれはサンタのような赤いケープをつけていたが、それが小雨にしっとり濡れて冷えた。奥歯がガチガチ鳴った。
「メイイイー・クリスマス、あうう、クジをどうぞ」
呼び声にへんなヨーデルが混ざってしまう。水っぽい洟がたらたら流れた。
ドアマンに蹴飛ばされながら、開かない顎にクジのバスケットをくわえて運ぶ。
(寒い。雪じゃねえか?)
ふと顔をあげた。
いつのまにか陽が落ちていたのだろう。大通りの輝きにおれは目を瞠った。
通りにはルミナリエが夢のように輝いていた。幻想的な光の門が幾重にも重なり、神の城が浮かびあがっている。
その下を、恵まれた人々が歩いていた。
高そうなコートを着た主人たち。その足元に這う裸の犬たち。
おれはぼんやり、それを見つめた。
犬たちはみな、主人のそばにぴたりと寄り添い、懸命に手足を動かしていた。目はルミナリエに見とれ、子どものように輝いている。
光のなかで、彼らはあたたかそうだった。愛玩され、やさしさにつつまれ、裕福そうに見えた。
「わんちゃん、そいつをおくれ」
入り口に客が来ていた。バスケットを咥えていくと、その足元から若い男がぬっと頭を突き出した。
「ヨハン。クジを一個とって」
主人に命じられ、男が鼻をバスケットにつっこむ。クジをくわえ、顎をあげた時、その首輪になにかがからまっているのが見えた。
真珠のネックレスだった。
客と犬が去ると、胸からガクリと力が抜けた。鼻の奥に水がつたう。ガキじゃあるまいし、と思っても、どうにもならなかった。
ドアマンが叱りつける。おれはバスケットを咥えた。洟をすすり、クジを運ぶ。
メリー・クリスマス。クジをどうぞ。
鼻先を客の足がすぎる。はだかの犬がその後ろをいそいそついていく。
エントランスの暖かい空気が一瞬、漏れ、またドアが閉まる。
メリー・クリスマス。
話し声がすぎていく。笑い声が、足音がすぎていく。
おれはバスケットを置いた。
「メリー……」
声が出なかった。おれはうずくまって顔を覆った。
ホテルのスタッフが出てきて、おれをどやした。ウエリテス兵が呼ばれ、裏にひきずられていっても、おれはうずくまって泣いていた。
使い物にならないというので、おれはまた地下に戻された。
もうジョークも出ない。ケージの隅にうずくまり、ふぬけていた。
(しっかりしなけりゃな)
と思う。泣いていたって、だれが助けてくれるわけでもない。クズ犬にふてている自由はないのだ。
夕方、飯を食った後、おれはようやくケージの前に出た。
「ヒロ」
すぐに店員がケージから出るように言った。
アクトーレスのジョニーが来ていた。
おれは気まずく目を伏せた。あれ以来、ジョニーの態度はビジネスライクになった。冷たくはないが、やさしくもない。
「なに?」
「もうおまえはここに出なくていい」
彼はついてくるように言い、ショップの奥へと入った。
(もう出なくてもいい?)
おれは彼のふしぎな言葉にひっかかった。
――まさか。ご主人様が。
考え直してくれたのか。やはり、おれが一番いいって?
おれは自分のこころを叱りつけた。
(そんなムシのいい話があるか。絶対ない!)
「ここに入って」
ジョニーが部屋の扉を開ける。
おれは、絶対にない、と思いつつ、主人の姿を探した。
主人はいなかった。
かわりに棺おけがひとつ、部屋の中央に置かれていた。
背後で戸が閉められた。
おれはジョニーを見上げた。ジョニーは無表情におれを見て、
「今日でさよならだ」
と言った。
無機質な、なにもない部屋に、棺桶だけがぽつんと置かれていた。
細い、人がひとりやっと入れるほどの箱だった。なかに白バラが敷きつめられていた。
腰の力が抜けてしまった。おれはへたりこみ、棺桶を見つめた。
涙がどっと流れた。
今日だったのだ。今日が期限だったのだ。
「薬を打つから、そこに寝てくれ」
ジョニーは淡々と言った。おれは動けなかった。茫然と涙を流し、へたりこんでいた。
ジョニーの手が触れる。
(ヒッ)
おれは逃れようとして、腰くだけた。立てない。
「最後まで手をかけさせんなよ」
ジョニーはおれを抱え上げ、箱のなかへおろした。おれはぐにゃりと伸びてしまい、抗うこともできなかった。
(まだいやだ)
だが、声がろくに出ない。死の力に圧倒され、全身の筋肉が萎えてしまっていた。
(たすけてくれ。ジョニー)
涙だけがあとからあとから流れる。
殺さないで。もっと客をとるから、まだ殺さないでくれ。
ジョニーが銀色の箱を出して、注射器を手にする。毒薬を吸わせ、おれに近づいた。
(ジョニー……)
知らない男のようだ。はじめて会った時のように彼は表情を消していた。
彼の手がおれの腕をおさえた。
チクリと痛み、細い針が埋め込まれる。
「ッ――ぎッ……」
振り払おうとしたが、ジョニーの手が鉄の輪のように押さえていた。透明の薬液がゆっくり押し込まれてくる。
(あ、ああ)
おしまいだ。
ジョニー、なにがいけなかった? おれはなにがいけなかった?
マキシムに恋をしたから?
アンドリューの下敷きになったから?
おれはここで犬にされた。男に抱かれ、おもちゃにされた。すっ裸にされ、何もかも奪われた。
みじめな犬だ。そんな犬がほかの男に恋をした。
胸のなかに、ちっぽけな楽しみをもった。ほんのわずかな魂のご馳走を味わった。
愛した相手に哀れみをかけた。しかたなかった。
男なら、しかたないじゃないか。
(……)
眠くなっていた。まぶたが重い。心地よく、眠い。
ジングルベルが聞こえる。ショップの音が聞こえているのだろうか。
ジングルベル。ジングルベル。
世の中はクリスマスだ。世界中、電飾できれいに飾り付けられているだろう。
あのルミナリエのように残酷なほどきれいだろう。
おれはここでおしまいだ。年を越せなかった。
おれはようやくふわふわと唇を動かした。
「ジョニ……今まで、ありがと……」
ジョニーがはっとおれを見た。彼は顔をこわばらせ、答えなかった。
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